報道を見ていますと、台風の余波がまだまだ残っている地域が少なからずあるようです。
被災された方々にはこころから深くお見舞い申し上げます。


さて先日、「東北地方再犯防止シンポジウム」ー依存の問題を抱える犯罪を犯した者等への支援の在り方―、(法務省、仙台高等検察庁、仙台法務局、東北地方更生保護委員会、仙台矯正管区主催)にお邪魔してきました。

薬物依存の問題を主たるテーマとし関係機関の方々から発表があったのですが、一連の内容をうかがい、その「支援」ということばに思ったことを今回は記します。

登壇者が使われていた「支援」ということば。
支援とひとことで言われてましたが、その中身がそれぞれ違うのではないか、という印象を持ったのです。

私自身も「支援」ということばを使うことはありますが、それは単に依存を止めて頂くお手伝いという意味ではありません。
依存を止める止めないが「支援」の主たる目的ではなく、生きる力を取り戻し生活の生きづらさを解消・解決することがゴールだと思っています。
つまり依存を止めるのはそのゴールへたどり着くまでのプロセスの中で起こりえることであり、目的はそれよりずっと先にあるものという位置づけです。


食事を例にとってみましょう。
「美味しい肉じゃがとお味噌汁をCさんに食べてもらうこと」をゴールAとします。
ゴールBは「Cさんと食事を楽しんで、二人で良い時間を過ごすこと」だとしましょう。

Aを達成するためには良さげなレシピを探してきて、食材を吟味し、計量通りに作ること、がプロセスとなりますね。
ではBならどうでしょう。
楽しむ食事ってどんなのだろう、良い時間を過ごすためにはどうしたらいいだろう、どんな自分で対応したらいいだろう。
これらの答えが達成へのプロセスとなります。

Aの方が単純で簡単ですが、Bはいろいろ考えなければならないし時間も努力も必要となるかもしれません。
Aは応用が利きませんが、Bはこれ以外のことへも幅広く対応できる中身です。
Bにトライしていく中でAはおのずと達成できます。

言うまでもなく、しおりで使う「支援」はBです。


冒頭に戻って、先日の催事では「支援」をAの意味で使っている方(機関?)、つまり依存を止めることがゴール、がいらっしゃることを感じずにはいられなかったのです。
同じ「支援」ということばを使っているとしても、その概念が違っていれば、話し合いが噛み合わない結果になっても不思議ではありません。
上のAを目指す人とBを目指す人が同じテーブルについて、それぞれの目的を達成するためのディスカッションをイメージしてみれば、その内容が全く違うことがご理解いただけるかと思います。
少なくとも方向性が全然違うわけではないのだとすれば、せっかくの多方面の力を分散させてしまうのではなく、同じゴールに向かって発揮させなければ何と勿体ないことでしょう。

もしかしたら援助者は「支援」概念の再確認およびすり合わせが必要なのかもしれませんね。