最近、この本を読みました。
売れ筋ランキングにも入っているようです。

『ケーキの切れない非行少年たち』 宮口幸治 2019 新潮新書 

ホールケーキが1つあったとして、それを3人で等分に分けるにはどう切り分けたらいいか?と著者が少年に尋ねると、通常では想像もしない答えが返ってくるというのです。
このような認知をする人に対して、「定型発達」の人と同じようなアプローチは機能しない。


読んでいる最中からいろいろと考えさせられています。

反省、と言っても、何に反省したらいいのか分からない。
何が反省することなのか分からない。
自分を顧みると言っても、はなからその意味がよく理解できない。
どれだけ言い方や単語を言い換えたとしても、もともとそのような認知がないので本意が伝わらない。


これは何も「非行少年(少女)」だけにあてはまることではありません。
だから遠い別世界のお話ではありません。
皆さんにも思い当たる節がある方がいらっしゃると思います。

こういう人たちが社会生活を送る上では、様々な場面で生きづらさを感じざるを得ないことは容易に想像がつきます。
学校では教師の説明が、職場では上司の指示が理解できない。
叱責され、そこがどんどんと行きづらい場所になっていく。
最終的にはその場所を避ける(不登校や辞職)ようになる。
他者とのコミュニケーションだって、込み入った内容になれば苦労があることでしょう。
その生きづらさを何とか紛らわすため、彼ら彼女らはいろいろな手段をとります。
その手段は違法のこともあれば(社会的)自傷行為もあるでしょう。
病気の症状として主張する場合も考えられます。

これは決してその人の責任でそうなっているわけではないので、その人を責めても、避けても、非難しても、馬鹿にしても決して解決にはつながりません。
むしろ周囲のそのような反応は悪影響しかない。




それにしてもこういう人たちが心地よくいられる居場所はいったいどこにあるんだろう、と思います。
家でも学校でも職場でも居づらくなった人たちが最終的につながることのできる場。
それが司法の施設であっていいはずがない。
本来は家が、学校が、職場が、ご近所が居やすい場であるのがベストだろうと。
しかし仮にそれが叶わないのであれば、せめて近くにそのような場があって欲しい。
近くにしっかり理解してくれる人がたった一人でもいてくれたら。
少なくとも教育・福祉・司法・医療の専門職は、その一人になれているか、と自問自答を日々し続ける必要があると思うのです。